ここ10年、僕が抱えている大きな悩みがあります。それは、スマホとSNSに、自分の時間を、いや、人生そのものを支配されているのではないか、という不安です。
かつて移動中の時間は、本を読むか、音楽を聴くか、あるいはただ車窓を眺めてぼーっとするか。選択肢は限られていましたが、そこには「待つ」という余白がありました。しかし今はどうでしょうか。スマホ一つで、映画も、YouTubeも、無限のSNSも、僕らの時間を埋め尽くしてしまいます。
仕事柄SNSを使わないわけにもいかず、更新のために開いたはずが、「ハッ」と気づけば1時間、わけのわからない動画を見ていた…なんてこともあります…しかもたいして覚えてもいない汗
その1時間、僕は一体何をしていたのでしょうか。僕は「生きていた」のでしょうか。
子供に話しかけられても、「ちょっと待って」とスマホの画面を優先してしまうこともあります。その度に、取り返しのつかないことをしたような罪悪感に苛まれます。
このままではいけない。そう感じていたとき、僕の指針となったのが、仏教における「刹那(せつな)」という考え方でした。
■ 「今、この瞬間」を失うということ
仏教には「諸行無常」という言葉があります。「あらゆる物事は常に変化し、同じ状態に留まることはない」という意味ですが、その思想の中に「刹那」という概念があります。それは、「今、この一瞬一瞬を大切に生きなさい」という教えです。
スマホに集中しているとき、僕らは「今、この瞬間」を生きているでしょうか。
例えば、景色の良い場所に行ったとします。「これを写真に撮ってシェアしよう」と思った瞬間、僕らの意識は、その場の匂いや音、肌で感じる風や光といった五感から離れ、「いかに映える写真を撮るか」という作業に切り替わってしまいます。
後から写真を見返せば、その場所に行ったことは思い出せるでしょう。しかし、思い出せるのはシャッターを押した瞬間の「スマホの画面」だけで、その場を満たしていた豊かな感覚は、驚くほど記憶から抜け落ちているのです。
これが、スマホが僕らから奪う「今、この瞬間」の正体だと考えています。
■ あなたはどの時間軸で生きていますか?
この「今」を大切にするという視点は、人との会話にも応用できます。僕は人と話すとき、その人の会話の「時勢(現在・過去・未来)」を意識するようにしています。
過去時制の人:「バブルの時はこうだった」と、昔の栄光ばかり語る上司。彼らの話は、未来を生きる僕にとって少しも面白くありませんでした。過去は変えられない。その話ばかりする人は、過去に生きているのです。
未来時制の人:「俺はビッグになる」と未来の夢ばかり語り、現在の生活がボロボロな人もいます。未来は大切ですが、それは「今」の積み重ねでしか作れません。現在をおろそかにして、良い未来は訪れないのです。
結局、最も重要なのは「現在」です。 「今」をいかに充足させるか。その積み重ねが良い未来を作り、やがては良い過去にもなる。このシンプルな事実に気づいたとき、僕の中で、生き方の軸が定まりました。
■ 「便利な食事」が犠牲にするもの
この「今を生きる」という哲学は、僕が最も大切にしている「食事」にも直結します。
一食一食を丁寧に積み重ねることが、良い未来に繋がります。 では、「便利な食事」、例えばコンビニ食はどうでしょうか。
「便利」とは、未来の時間を確保するために、「今、この瞬間の食事」を効率化し、ある意味でないがしろにする選択です。「今、この瞬間の食を充実させよう」という想いとは、ベクトルが真逆なのです。
仕事が忙しいから、食事に時間をかけられないから、と選ぶ適当な食事。それは、未来のために「今」を犠牲にする行為に他なりません。
もちろん、僕がコンビニエンスな食をしないとは言ってないです。
むしろ、せざるを得ない時もありますので神経質になってはいけません。
■ 「今」を取り戻すために
スマホから顔を上げ、目の前の現実に意識を向けること。 仕事も、人間関係も、一歩一歩、一瞬一瞬を大切にすること。子供と話すときは、ちゃんと目を見て話す。毎日反省ばかりですが、この意識を持つことが重要です。
「今」をおろそかにすれば、それは取り返しのつかない過去になり、未来に暗い影を落とします。
僕たちは、この便利すぎる時代の中で、どう「今」と向き合うべきか。これは、僕を含め、現代を生きるすべての人に与えられた課題だと感じています。
少なくとも「美味しい食事を家族で囲んで会話をする」ことは忘れないように、我が家では食事時はテレビとスマホを禁止するようにしてます。
そんな美味しい食卓の一旦をBONIQが担うことができれば嬉しいと思っています。